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活躍する先輩たち

 若手社会人を対象に実施した調査(2020年)によると、すでに小学生時代に将来就きたい職業があったとの回答が半数以上を占めています。
 また、多くの人が、この頃から将来の職業について考えたり、調べたりしたと答えています。
 今号では、多様な分野で活躍する20〜30代の先輩たちが仕事を選んだ理由や、やりがいなどを語ってくれました。
 目標や将来を考える時の参考にしてみてください。

社会人2〜4年目1000人に聞きました

コンプレックスを越えていく勇気を

 資生堂の150周年記念CMに出演しました。事務所に所属して2カ月後のことだったので、すごく驚きました。あの資生堂、しかも有名女優が8人も出演するCMです。私でいいのかなという不安もありましたが、終わってみれば「楽しかった」の一言です。ライトがずらりと並ぶ撮影現場のあの雰囲気は、まさに子どもの頃から憧れていた夢の世界でした。
 モデルになりたいと思ったのは10歳の頃。母が読んでいたファッション雑誌の影響です。雑誌のモデルになって、みんなが憧れるような存在になりたいと子ども心に思っていました。しかし、生まれた時は全盲で、何度かの手術の結果、人の姿がぼんやりと分かる程度です。色は分かりますが、視線は合いにくく、強い光も苦手なので難しいだろうと思っていました。一方、5歳からピアノを弾いていたこともあり、音楽の道に進みたいとも考えていました。
 それでも「やっぱりモデルになりたい」と強く思ったのは高校生の時です。夢を実現するには、自分のコンプレックスをさらけ出さないといけません。それを越える勇気がないと何事も始まらないと覚悟を決め、オーディションを受けるようになりました。
 60秒のCMで私の出演したシーンはほんの一瞬ですが、オンエア後すぐに友だちから「見たよ!」と連絡がありました。誰にもまだ伝えてなかったのに、映像ってすごいですね。これからも失敗を恐れずに、いろんなことにチャレンジしていきたいです。

モデル

工藤星奈さん(21)

2000年生まれ。先天性緑内障による視覚障害がある。フェリス女学院大学音楽学部でピアノと声楽を学びながらモデルとして活動。障がい者専門芸能マネジメントを行う(株)accessibeauty所属。

良き相談相手として生徒と一緒に成長したい

 中学時代、野球部の顧問の先生と出会い、漠然と「先生っていいな」と思うようになりました。きちんと叱って指導する熱い先生像への憧れだったと思います。
 高校入学後、中学生の時に勉強を教えたことがある友だちから「高校に入れたのは苦手な数学を教えてくれたおかげだ」と言われ、自分でも「先生に向いているかも?」と思ったことがきっかけで、本格的にめざすようになりました。中学校を選んだ理由は、教科指導に専念できることと、部活動も含めて生徒と接する時間が多いからです。
 思春期の生徒は悩み事も多く、電話連絡や家庭訪問をすることもあります。大変だと思うこともありますが、子どもや保護者の「良き相談相手として力になりたい」との思いで向き合っています。
 その一方で、身体的にも精神的にも著しい成長を実感することもあります。例えば、担任を受け持った当初、少し気の荒い生徒に「もう少し言い方を考えたら?」とアドバイスしました。すると、3学期には、クラスメイトに対する態度や言動に配慮が見られるようになったのです。こうした場面に立ち会えることが、教員としての大きな喜びであり魅力ですね。
 子どもたちが将来社会に出て中学時代を振り返った時、「昔あんな先生がいたな」と思い出してくれることがあればこれほど嬉しいことはありません。これからも生徒と一緒に着実に成長していく自分でありたいと思っています。

中学校教諭

平澤聡太さん(27)

1994年生まれ。2017年より茨城県行方市立玉造中学校に勤務。担当教科は国語。担任を持つ傍ら、ハンドボール部顧問として生徒の指導にあたっている。

入社16年目にかなった夢はゴールではなく「はじまり」

 祖父が特急電車の運転士だったので、鉄道は身近な存在でしたが、子どもの頃の夢は野球選手になることでした。
 電車通学などで利用するうちに、鉄道がいかに人々の生活や地域経済を支えているかに気づき、鉄道の仕事を夢や目標として意識するようになりました。
 高校卒業後JRに入社してからずっと「いつかは新幹線」という思いはありましたが、希望を出してもなかなかかないませんでした。会社が実施する出前授業で特別支援学級を訪ねた時のことです。お礼に子どもたちからプレゼントされた歌の内容が「やればできる」だったのです。自分もあきらめずにチャレンジを続けようと、あらためて勇気をもらいました。
 そして、16年目に新幹線運転士の辞令をもらった時、思わず「ようやく夢がかなった」と泣いてしまったんです。すると、上司から「これがゴールじゃないだろう。はじまりだよ」と声をかけられ、はっとしました。
 新幹線を運転していると、いろんな人が手を振ってくれます。何年経ってもうれしい瞬間です。時にはホームで、子どもから「一緒に写真を撮って」と頼まれることがあります。その時の子どもたちの目は、私が子どもの頃、憧れの野球選手に向けたのと同じように、キラキラと輝いています。彼らの目を見るたびに仕事を誇りに思います。そして、これからもがんばろう、と気が引きしまります。
 私も同じ目標をかなえるまでにはずいぶんと時間がかかりました。どんな夢や目標もあきらめなければ、少しずつ近づけると信じています。

新幹線運転士

千葉亮介さん(35)

1987年生まれ。2005年JR東日本入社。2年間の駅勤務を経て車掌業務を2年経験。10年からは運転士として山手線に乗務。20年より新幹線運転士として東北新幹線(東京〜新青森間)で乗務。

常に相手に寄り添う保健師でありたい

 高校時代、父が亡くなった時の看護師さんの温かい対応に感銘を受け、看護大学に進学しました。最初は看護師になりたかったのですが、病気について学ぶうちに保健師をめざすようになりました。
 保健師の仕事は、簡単に言えば「病気になる前に人を助ける」ことです。働く場所は、学校や市役所などの公共の場所、会社などさまざまで、時には家庭訪問をすることもあります。健康相談や育児相談を受け、生活改善のための指導や助言を行います。
 私の場合は、一般企業に在籍し、新入社員からベテランまでを相手にプロとして健康指導をしています。時には自分の親の世代の方に助言することもあります。
 治療とちがい、健康指導には明確なゴールがありません。理論的に正しい助言をしても「お節介」ととられ、受け入れてもらえないこともよくありました。そんな経験をするうちに私の正解が必ずしも相手の正解ではないことに気がつきました。例えば、「睡眠時間を増やしましょう」にも、人の数だけの方法があります。それからは、まず相談者の生活習慣や価値観を受け入れ、私がその人の健康に寄り添う「味方」であることを分かってもらえるように努めました。
 最近では、「指導のおかげで体重が減った」「健康診断が楽しみになった」と声をかけられることも増えてきました。
あまり知られていない保健師ですが、やりがいある仕事です。めざす人がもっと増えたらいいなと思っています。

産業保健師

小川優希さん(27)

1995年生まれ。看護大学卒業後、循環器病棟と救急外来でそれぞれ1年間の看護師経験を経て保健師に。現在は産業保健師として(株)Mocosukuに所属し、クライアント社員の健康管理にあたる。

日本酒を通して地域の魅力を発信

 学生時代は旅行雑誌の仕事がしたいと思っていました。全国を巡って多くの酒蔵を訪ね、原料となる米や水のことを知り、日本酒の持つ魅力と物語に出会いました。当時より、他のアルコール飲料に押され需要が減少していた日本酒を自分たちの手で盛り上げたいと考え、それなら日本酒を通して地域の魅力を発信しようと立ち上がりました。
 酒販店を営みながら同時に農業も行うようになったきっかけは、農家の廃業によって原料の米が作られなくなることを心配したからです。お酒は造れないけれど、原料の栽培なら出来る。自分たちで原料を作れば、経営リスクも減らせると考えました。
 最初の2年は水田造りに明け暮れました。その上、酒の原料になる品種は栽培が難しく、365日自然と向き合う毎日でした。それでも1年目の失敗を2年目に繰り返さないよう仲間と協力しながら今日まで続けています。今では水田にホタルも舞うようになりました。自分たちの事業が生態系を復活させ、地域の環境保護にも役立っていることは大きな励みです。
 これからの農業は、会社組織でとりくまないと成り立たないと思います。個人農家が作る「作物」では、価格競争に巻き込まれ生き残れません。「製品」として流通から販売までを考えることが重要です。今後の目標は、農業や酒造りの伝統文化を日本人の生活の一部に組み込むことです。今、大学生や就職活動中の若い世代が、私たちのとりくみに興味を持って、仕事を見たり話を聞きに来てくれたりしています。性別に関係なく、若い人が入りやすい業界にしたいですね。

「Sake Base」経営
/米農家

宍戸涼太郎さん(25)

1996年生まれ。大学時代より日本酒を通じた伝統文化の発信基地として企業。原料米の枯渇を憂い、一助となるべく自ら農作を決意。流通過程を含む農業の業態転換にとりくんでいる。

オリジナルの酒を醸すため、仲間と開墾した土地で稲作にとりくんでいます!
情報フィアル GIGAスクール構想が魅力的な世界である理由

文部科学省初等中等教育局
学校デジタル化
プロジェクトチームリーダー

板倉 寛さん

 GIGAスクール構想がめざしている姿を端的に表すと、「テクノロジーによる学びや人と人とのつながりの創造」と言えます。インターネット、クラウドといったテクノロジーを活用して、学校内のコミュニケーションを活発にし、地域や国境を越えてつながりを創り、課題解決のための知恵を学びあっていく―つまり、GIGAスクール構想によって、これまでの学校教育のあり方が大きく変わっていくことが期待されています。
 感染症への対応が後押しする形で、児童生徒の「1人1台端末」が早期に実現しました。子どもたちにとってGIGA端末は、ノートや鉛筆のように使える文房具 となったのです。一方で、クラウドが広く認知されるようになったのも、また、ICT機器のコストが手頃なレベルになったのも同じ時期。こうしたさまざまな要素が絡み合い、GIGAスクール構想が大幅に前進することになりました。
 そもそも、2020年度から小学校を皮切りに実施されている新学習指導要領が、この変革の基本的な理念と言えます。新学習指導要領は、子どもの可能性を伸ばすことに重点をシフトしていることが特徴です。「多様な人々と協働」しながら「持続可能な社会の創り手となること」を学習の目的としていますが、こうした理念は、GIGAスクール構想によって下支えすることができるのではないかと思っています。
 よくベテランの教員はICT機器が苦手という話になりますが、教科の本質に迫る深い学び≠実現するのは、ベテランの教員が得意とするところ。実のところ、端末の操作にかけては子どもたちのほうが慣れているわけで、教員の大切な役割は、情報社会における約束事を理解させつつ、子どもたちが主体的に端末を使っていくことを応援することです。
 授業以外での日常的な端末の活用も積極的に進めるべきだと思います。委員会活動の連絡を子どもたち同士がチャットで行っているという事例もあり、GIGA端末は学校のパブリックスペースになり得ます。
 子ども・教職員間だけでなく、学校・保護者間、教職員同士の連絡や情報交換の場にしていくことも実はGIGAスクール構想の狙いの一つです。こう捉えていくと、決して難しい構想ではなく、なかなか魅力的な世界に見えてきませんか?

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