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自分から一歩踏み出してみて!きっと少しずつ未来は変わるよ
和田なつき さん

釣りを楽しむ12歳の和田なつきさん

和田なつき(わだなつき)
2003年大阪府生まれ。中学2年時に知的障がいと診断を受け、同時期に卓球と出合う。23年チェコパラオープンでは、シングルスでの国際大会デビュー戦ながらも優勝を果たす。その後、アジアパラ競技大会を制し、パリ2024パラリンピック競技大会にて金メダルを獲得した。23年11月に株式会社内田洋行に入社し、仕事と競技との両立に勤しむ。

2024年に開催されたパリ2024パラリンピック競技大会で、卓球のシングルス(女子クラス11/知的障がい)で史上初の金メダルを獲得した和田なつき選手。不登校を経験した小中学生時代のエピソードや、知的障がいと診断され、パラスポーツにとりくむようになった経緯などについてお話しいただきました。

――パリパラリンピックで卓球のシングルスで初の金メダルを獲得されました。

 決勝戦は、大きな会場で一台の卓球台に数千人の視線が集まる、選手として最高に幸せな時間でした。相手は東京大会の覇者でしたが、「メダルは確定、あとは色を塗り替えるだけ」と、チャレンジ精神で挑んだのが良い結果を生んだと感じます。シングルス初の金メダルと知ったのは、ネットニュースなどからでした。

――幼少期は、どんな子どもでしたか。

 ルールに縛られるのが嫌で、門限を破って母に叱られていました。まともに乗れないキックボードで暗くなるまで田んぼ道を走り、頭から落ちたこともあります。小学2年生で体操教室に通い、トランポリンは好きでしたが、鉄棒やマット運動が苦手ですぐにやめました。兄の影響で始めたゴルフも、ドライバーで遠くまで飛ばすのは気持ち良かったのですが、繊細さが必要なパターが苦手で、これもすぐにやめてしました。振り返ると好き嫌いがとてもはっきりしていました。

――知的障がいがあるとわかったのはいつ頃ですか。

 中学2年生の時です。ある時、知的障がいの子と接した母が、「言葉遣いや行動が似ている」と調べたことでわかりました。
 小学生の頃は九九も覚えられたし、勉強でついていけないとは感じていませんでした。でも、思い返すと、漢字の読み書きが苦手でした。黒板に書かれた漢字が歪んで見えて、ノートに書き写せなくて。目が悪いのかとメガネもかけましたが一向に改善しませんでした。先生や友だちにも相談できず、中学生まで周りも、自分自身も障がいに気づきませんでした。

――卓球やパラスポーツを始めたきっかけは?

 小学3年生の時、いじめが原因で不登校になり、ストレスで歩けない時期がありました。まれに登校しても、「なんで歩けないの?」と聞く友だちに、「怪我したんや」とうそをつくのが辛くて、だんだん通えなくなりました。引きこもりがちになり、体重が増えていきました。だから、卓球はダイエット目的で中学生の時に始めました。練習がいやですぐにやめるつもりが、障がい者やおばちゃんなど一見勝てそうな相手に負けたのが悔しくて。卓球教室に通い始め、一人ひとり倒していたら、気づけば全国が、世界が見えてきたという感じです。23年に国際大会デビューし、約1年で世界ランク一桁になり、パラリンピックに出場することになったんです。

――子どもたちへのメッセージをお願いします。

 今、本当にしんどい思いをしている子に伝えたいです。つらい時は無理をせず休んでもらいたいですが、少し元気がある時に、自分から一歩踏み出してみて。そうすれば、きっと少しずつ未来は変わっていきます。
 私自身、卓球に出会ったことで、世界が広がりました。「私は私」と自分に自信が持てるようになりました。卓球を通じて、様々な年代の知り合いができ、同じように障がいのある仲間と交流することで色んな思いを共有できました。今、学校に通えていなくても、人生において「学べる場所」は、たくさんあると知ってもらいたいです。

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