地元のミニバスケットチームに所属していた小学生の田臥選手
田臥 勇太(たぶせ ゆうた)
1980年神奈川県生まれ。96〜99年、秋田県立能代工業高校在学中、高校三大タイトル3年間制覇。02年、トヨタ自動車で新人王獲得。04年、フェニックス・サンズとプロ契約。日本復帰後の08-09年シーズン、ベスト5・アシスト王などを獲得。16-17シーズン、Bリーグ初代チャンピオンに輝いた。
今号の表紙は、日本人初のNBAプレーヤーで、2016-17シーズン、Bリーグの初代チャンピオンに輝いたリンク栃木ブレックスの田臥勇太さん。
今もなお日本バスケット界をけん引する田臥さんに、NBAをめざしたきっかけや夢を叶えるために大切なことなどについてうかがってきました。
――バスケットボールを始めたきっかけは何ですか?
小学2年生の時、地元のミニバスケットチームに入りました。当時、よく遊んでもらっていた、姉の同級生たちの影響です。最初は「一緒に遊びたい」一心でしたが、いつの間にか、パスをつないだり、ドリブルで相手をかわしたりしながらゴールをめざすチームスポーツとしてのバスケの魅力に引き込まれていました。小学5年生の時、社会人リーグの試合を観て、プロとしてコートに立ちたい、とはっきり意識しました。
――競技を続けるうえで、ご両親の支えは大きかったのではないですか?
中学、高校とバスケ一色の生活でした。両親は欠かさず試合の応援に駆けつけてくれました。試合後、帰宅して夕食中に、父が撮影してくれた映像を毎回観ながら、「ここでもっと積極的に行かないと!」という風に、田臥家恒例の反省会が始まるんです(笑)。
地元の神奈川県から遠く離れた秋田県の能代工業高校に進学を決めたのですが、中学校を卒業してすぐに親元を離れ、土地勘もない場所での寮生活。両親は心配で仕方なかったはずですが、僕の気持ちを尊重して気持ちよく送り出し、最大限のサポートをしてくれました。本当に感謝しています。
――NBAをめざすようになった大きなきっかけがあったそうですね?
中学3年生の時、あるCMに出演したのですが、共演相手が当時のNBAの大スター、パトリック・ユーイングで、聖地マディソン・スクエア・ガーデンで試合を観戦することができました。
最初にオファーがあった全国大会の優勝、準優勝校が学校方針で出演を辞退したようで、ベスト4だった僕の学校に話が回ってきたのです。顧問をはじめ、先生たちがすごく協力的で、「貴重な経験だから、ぜひ行っておいで!」と背中を押してくれて。もしあの時、アメリカに行っていなければ、本気でNBAをめざすことはなかったと思います。
――NBAでは挫折と成功の両方を経験されました。
渡米一年目に所属したチームでは、開幕直前に登録メンバー12名から漏れてしまいました。本場の厳しさを痛感しましたが、悔しさはありませんでした。両親をはじめ周囲からはすごく心配されましたが、自分の技術はある程度通用すると実感できていました。だから「どのチームが自分のプレースタイルを必要としてくれるか」と、頭を切り替えることができたんです。
そして2004年、フェニックス・サンズで「NBAのコートに立つ」という夢をかなえることができました。
――夢をかなえるために大切なことは何でしょうか?
一度決めたことを変えてはいけない、と思わないことです。現在と数年先に描く夢が違っても構いません。物事は上手くいかないこともあります。そのたびに立ち止まり、別の道に向かったり、時には後戻りをしたりすることがあってもいいと思うんです。
「Never too late」(今からでも遅くない)という言葉を大切にしています。一見、回り道でも、経験を積むことで以前と違う自分として再挑戦できます。失敗を恐れず、色んなことにチャレンジしてもらいたいと思います。