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子どもの頃に描いたイメージが現在のスタイルに繋がっている
大谷翔平 さん

小学生の頃、野球大会で入賞してもらったメダルをかんで喜ぶ大谷さん

大谷翔平(おおたに しょうへい)
1994年7月5日、岩手県生まれ。花巻東高校では、3年夏の県大会準決勝で高校生史上最速の160キロをマーク。2012年秋、北海道日本ハムファイターズ入団。14年、「二刀流」プレーヤーとして、史上初の同一シーズン「10勝・10本塁打」を達成。15年には最多勝利、最優秀防御率、勝率第一位の投手三冠に輝いた。

 今号は、昨年開催された「WBSCプレミア12」で活躍し、今や「日本球界のエース」との期待もかかる北海道日本ハムファイターズの大谷翔平選手。投手と野手をこなす希代の「二刀流」プレーヤーはどのようにして生まれたのか、子どもの頃のエピソードを元に探ります。

――大谷さんはどんなお子さんだったのですか?

 良くも悪くも他人の意見に左右されない、マイペースな子どもだったと思います。小学生の頃は、休み時間が終わったのに気付かず運動場で遊んでいて、次の授業に遅れて先生に怒られることもよくありました。
 野球を始めたのは小学2年生の時、友だちから誘われたのがきっかけでした。父親も兄も野球をしていたので、キャッチボールはしていましたが、実際に練習に参加したらとても面白くて。両親に「リトルリーグに入りたい!」とお願いしました。

――プロ野球選手を志したのはいつ頃から?

 リトルリーグで野球を始めてすぐです。当時はポジションを固定されることなく、投手や遊撃手、外野手も経験しました。
 中学時代は、地元の岩手県花巻市から車で一時間ほど離れた、一ノ関市の「一関シニア」に所属していました。毎週末の練習や平日週二回の夜間練習など、仕事で疲れているにもかかわらず、送り迎えをしてくれた両親にはとても感謝しています。プロをめざすことも理解してくれて、比較的意思を尊重して育ててくれたように思います。

――高校時代から大きな注目を集めていました。

 エースの菊池雄星さん(現・埼玉西武ライオンズ)に憧れ、甲子園にも出場した花巻東高校進学を決めました。僕の高校入学の年に卒業されたため、同じチームでプレーすることはありませんでした。ですから、プロ入り後、同じマウンドで投げ合えた時は本当に嬉しく、不思議な気持ちがしました。
 高校三年間はまさに野球漬けの日々。寮生活では、テレビを観たり、ゲームをしたりすることがほとんどなく、流行の音楽も全く知りませんでした(笑)。
 甲子園には二度出ましたが、最後の夏に出場できなかったことが心残りです。チームメートには、東日本大震災で家族を亡くした選手もいて、励まし合いながら練習していただけにすごく悔しかったです。
 高校卒業後は、メジャーリーグ挑戦も視野に入れていました。北海道日本ハムファイターズからドラフト指名を受けた時は悩みましたが、キャスター時代から熱心に取材していただいた栗山監督が就任されたことと、二刀流≠ナの育成プランに惹かれ、入団を決意しました。

――夢を叶えるために必要なことはなんでしょうか?

 僕の夢はまだ叶っていないので、大きなことは言えないのですが、目標やイメージを持つことがとても重要なのではないでしょうか。
 中学時代の自分は、長期、中期、短期とそれぞれ目標を設定していました。例えば、「3年までに球速を120キロにする」ためには、「年間5キロアップさせる」必要がある、だから「今日はこのメニューをこなす」というように。
 どうしても具体的な目標を立てるのが難しければ、まずは「こんな選手になりたい」とイメージするだけでも良いと思います。なぜなら、自分自身、「もっと速いボールを投げたい」、「もっと遠くにボールを飛ばしたい」と小学生の頃に思い描いたシンプルなイメージが、現在の二刀流≠ニいうスタイルに繋がっていると感じるからです。

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