卓球を始めた3歳当時、宮城県・仙台市吉成の体育館で練習する福原選手。 | |
福原 愛(ふくはら あい) |
2012年夏のロンドン五輪、福原愛選手は卓球女子団体のエースとして、日本卓球史上初となる銀メダルを獲得しました。「泣き虫愛ちゃん」の愛称で親しまれた福原選手も卓球人生20周年。そんな節目の年にこれまでの歩みをうかがいました。
―卓球を始めたきっかけは何ですか?
私が3歳の時、10歳上の兄が卓球を始めたので、家族全員が兄に付きっきりで練習場にいることが多くな
りました。誰も遊んでくれないので、「ぬいぐるみを忘れた」「ソファーの後ろにキーホルダーを落とした」と何かと理由を探しては練習のじゃまをしに行ったものです(笑)。3歳児なりに「どうしたらみんなともっと一緒にいられるんだろう」と考えた結果、「私も卓球を始めればいいんだ!」と思ったのです。
―福原選手の最初の指導者は
母の千代さん。
「千本ラリー」の話は有名です。
1本でもミスしたら、また最初からやり直し。たとえ母のミスでも。ある時、なかなか続かなくて、泣いて「もういやだ」と、ラケットを置いてしまったことがあります。すると母も怒ってやめてしまって。あわてて「卓球を続けたいので、また教えてください」と反省文を書いて謝りました。それ以来、自分から練習をやめたことは一度もありません。母に、「これは反省文だけど、誓約書だよ」と言われ、幼いながらにその意味の重さを知ったのです。
―泣いても台から離れない、「泣き虫愛ちゃん」はこうして誕生したのですね。
「やめていいよ」と言われると余計にやめられない、そういう性格を母はわかっていたんでしょう。人に負けることに対してではなく、自分がやると決めたことは最後までやり通すという意味で「負けず嫌い」でした。「卓球は遊びじゃない!」が、当時の口ぐせでした。
―数々の最年少記録を更新するも、全日本選手権は優勝できていませんでした。
子どもの頃は純粋に試合が楽しくて、結果を出して周りの大人を驚かせたかった。勝って当たり前ということはありえないはずなのに、そう言われるようになると、「負けてはいけない」という気持ちが強くなり、自分自身でプレッシャーをかけていたように思います。初優勝できた今年の全日本は、「五輪に向けた通過点」と、気楽な気持ちでのぞめたのが良い結果に結び付いたのだと思います。
―五輪へ出発する際、「被災地にメダルを持って帰りたい」と宣言していました。
震災によって、故郷の仙台も大きな被害を受け、私の試合にのぞむ姿勢が大きく変わりました。
「勝ち負けだけではなく、勝っても負けても、短い時間でも応援してくれる人に元気が伝わるようなプレーをしよう!」
私は卓球選手、ならば常に全力で、最後まであきらめない姿を見せて被災地のためになりたいと。
―子どもたちに向けてメッセージをお願いします。
私は今回の五輪で、頑張って続ければ夢は本当にかなうのだと実感しました。メダルを取るまでに20年、日々の小さな積み重ねが、この結果を生んだのです。よく、「戻れるならいつに戻りたい?」と聞かれますが、私は「いつにも戻りたくない」と答えます。それぐらい毎日、一瞬一瞬を100%でやってきたから。
だから子どもたちにも、今しかできないことを精一杯楽しんでほしい。大人になった時に、「あの時にもっとこうすればよかった」と後悔しないように。それがきっと、夢の実現につながるのだと思います。