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■真面目一方ではつぶれます
  •   スマイル&マイペースで!
  • 長野五輪スピードスケート銅メダリスト
    岡崎 朋美さん
写真:岡崎朋美さん

岡崎 朋美(おかざき ともみ)
1971年、北海道清里町生まれ。小学校3年生からスケートを始め、釧路星園高校を経て富士急行に入社。当時の長野照正監督が無名選手だった岡崎さんの才能を見抜いたとされる。1994年にリレハンメル五輪に出場。98年の長野五輪では、500mで銅メダルを獲得。以後、2010年のバンクーバー五輪まで5回連続五輪出場を果たす。2010年に出産後、2014年のソチ五輪出場を目指したが、選考会の500mで6位に終わり、引退を表明した。現在、聖徳大学教育学部で客員教授を務め、スポーツ学を教えている。

――長野五輪で銅メダルを獲得し、「朋美スマイル」が話題になりました。

 どの大会も印象深い思い出ですが、最終的にめざしていたのはやっぱりオリンピックのメダルでしたので、長野での銅メダルは誇りに思っています。
 私はそもそもエリートコースではなかったんですよ。高校生の時までは、メダルはおろか、オリンピックに出場できるとも考えていませんでした。小さい時はとにかく体を動かすことが大好きで、友だちと競い合うのが楽しくて、地元のスケートクラブに通っていました。高校を選択する時も、強豪高は上下関係が厳しいと聞いて避けたくらいですから(笑)。
 それが高校卒業後、富士急の監督にスカウトされたことで、ガラッと意識が変わりました。同じチームに橋本聖子さんという存在もあり、世界のトップをめざす方向にシフトチェンジしたんです。子どもの時から野生児のように野山を駆け回っていたからか、身体能力には自信があったので、自分がどう変化していくのか楽しみになりました。

――1994年から5回連続五輪出場という快挙を成し遂げました。

 実は、その都度その都度、何らかの"事情"があって、辞め時が見つからなかったんですよね(笑)。長野のメダルは嬉しかったのですが、悔しさも残りました。その1年前にスラップスケートという、かかとの部分のブレードが離れる靴が採用されました。それまでワールドカップで連戦連勝だったのですが、ノーマルの靴でスキルを極めていたため、なかなか感覚をつかめないまま本番を迎えてしまったんです。そしてリベンジを期した4年後、今度は椎間板ヘルニアになってしまいました。
 その後も挑戦し続けたのは、身体の衰えを感じなかったからです。それに、私は生来メンタルトレーニングが不要なくらい前向き思考で、弱気になるということがないんです(笑)。体力は向上しないけど、維持はできるし、技術は磨くことができる。実際、38歳の時、自己ベストを更新できましたからね。

――40代で子育てをしながらオリンピックをめざされました。

 結婚や子育て前からの変化といえば、朝のランニングができなくなったこと。小学生の頃からの習慣が途絶えたのがつらくて、何とかカバーせねばとそれまで以上に練習に集中するようになりました。練習中、保育園から「熱が出ました」と連絡を受けることもありましたが、負けてはいられません! 怪我でプロ野球選手になる夢を実現できなかった夫は、私には納得するまでやってほしいと応援してくれましたし、一般の方からも「すごく勇気づけられる」、「エネルギーをもらった」との声が届きました。私も「もっと頑張ろう!」と思えたんです。

――教職員や保護者に、エールを送ってください。

 生意気なことを言うようですが、一から十まで全力で頑張らなくていいと思うんです。八くらいに留めたらどうでしょう? ご飯なども「今日はお惣菜買ってきたよ」とか「出前頼んじゃう?」とか。さぼっても自分を責めなくていいんじゃないかと。子どもに対しても肩の力を抜いて、野放しでいいところは野放しにしたらどうでしょう? その分、先生や保護者のエネルギーを温存できるんですから。
 私のアスリート人生を振り返っても、しんどいなという時は手を抜いていたように思います。アスリート は自分を客観視することに長けています。リラックスが必要な時は、ドライブをしたり、ペットと遊んだ り、あえて緩める時間を作っていました。もちろん真面目にやることは大事。でも、継続するには真面目一 方ではつぶれてしまいます。マイペースでいきましょう。
 これ、オリンピックに5回出た私が言っているのですから、結構、説得力があると思いませんか?

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