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■時代や技術が変わっても
  •   揺るがない「本質」がある
  • プロ野球監督
    金本 知憲さん
写真:森山良子さん

金本 知憲
1968年広島県生まれ。阪神タイガース監督。広陵高校、東北福祉大学を経て、91年にドラフト4位で広島東洋カープに入団。FA権を行使して、2003年、阪神タイガースに移籍。12年に引退し、16年より現職。連続イニング、連続試合フルイニング出場数の世界記録、連続無併殺打の日本記録を保持。18年1月に野球殿堂入り。

――どんな子ども時代を過ごされたのでしょうか?

 活発でやんちゃな子どもでした。4人兄弟の末っ子で、よく2歳上の兄とけんかしては、母に怒られました。両親は比較的放任主義でしたが、あいさつをしっかりする、時間を守るなどの基本的なマナーには厳しかったと思います。
 学校では、けんかが強かったですね。自分では悪者退治のつもりで、調子に乗っている子を懲らしめた時のことです。担任の先生に「弱いものいじめは恥ずかしいことやと思え」と、叱られました。子ども心にも、その厳しさが愛情なのだと分かり、心に響いたのを覚えています。

――野球を始めたきっかけは?

 小学校4年生の頃、同級生がリトルリーグ「広島中央リトル」に入ったのを見て、自分も本格的に始めました。練習はきついし、なかなかレギュラーになれず、実は1年ほどでやめてしまいました。その後、中学では軟式野球部に入り、投手や三塁手など色々なポジションを経験しました。3年生の時、スカウトに来た高校野球の監督に「プロ野球選手になれる素質がある」と言われ、本気でプロをめざし始めました。卒業文集に載せた将来の夢は「プロ野球選手」でした。

――阪神タイガースを引退後、3年でグラウンドに戻ってきました。

 最初に監督のオファーをいただいた時には、受ける気はありませんでした。何度も頼まれるうちに、お世話になったチームの役に立ちたい、との気持ちが強くなっていきました。お引き受けした時には、「やるからにはとことんやって、優勝する」と決めました。その決意があるからこそ、日々選手と向き合い、行動できているように思います。

――選手を育てる立場になって、気づいたことは?

 タイガースは伝統的にあまり練習しないチームなんです(笑)。現役時代、星野仙一監督がいた2年間はピリっとしていたのに、退任された途端、チームの空気が緩みました。だから、まずは意識改革が必要でした。ただし、選手は、身体や心の状態も一人ひとり違いますから、先入観を持たずに話を聴くことからはじめ、今も大事にしています。
 また、チーム全体で目標を共有して、一貫性を持った判断を心がけています。たとえば、私もそうでしたが、選手は自分から休みたいとはなかなか言えません。良いパフォーマンスを維持し、チームの勝利に貢献してもらうために、時には休ませることも必要です。
 様々な選手がいるチームを、コーチやスタッフと共に育てていく監督の役割は、学校でいうと校長先生に近いかもしれません。校長先生、教頭先生、担任の先生……、各々が違うことを言ったら、子どもたちは迷ってしまうでしょう。
 リーダーが決意と覚悟を示すことが、チームにとって、いかに重要なのかを実感しています。

――今の子どもたちに接する教職員や保護者へメッセージをお願いします。

 教員の知人から「教員の情熱が薄れると、子どもたちの落ち着きがなくなる」と聞きました。子どもたちは、最も近くにいるおとなの思いや状態を肌で感じるのでしょう。保護者や教職員の生きる姿勢や覚悟、誠意は必ず伝わります。
 分かっておきたいのは、いつの時代も子どもたちは変わらないということです。だから、「今の世代は…」といった括り方はしないでもらいたい。若い野球選手の中にも、礼儀正しい人もいれば、そうでない選手もいます。今も昔もそれは変わらないのです。
 もう一つ。どんなに技術が進歩しても、変わらない「本質」が必ずあります。トレーニングの方法論は日々進化しますが、走り込む、打ち込む、投げ込むといった基礎の反復とメンタルが大事なのは揺るぎない。勉強も、その他のことも同じ。子どもの仕事は学校に来て勉強することだという責任感を持たせつつ、子どもたち自身がその根本部分を理解して、一つひとつ前向きにとりくめるよう、繰り返し、言い聞かせてもらいたいです。

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