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■おとな目線で押し付けず
  •  「対話する」ことを大切に
  • 歌手
    森山 良子さん
写真:森山良子さん

森山 良子
1948年東京生まれ。67年「この広い野原いっぱい」でデビュー。その後、「禁じられた恋」、「涙そうそう」、「さとうきび畑」、など、数々のヒット曲を生み出す。2002年、第44回日本レコード大賞において最優秀歌唱賞、金賞、作詩賞を受賞し3冠を達成。08年には、「紫綬褒章」を受章した。17年9月には、ファンが選んだオールタイムベスト「森山良子 オールリクエスト」を発売。

――どんな子ども時代を過ごされたのでしょうか?

 小学生の頃から、授業中に「どうして人間は存在するんだろう」、「人間はこれからどうなるんだろう」などと漠然と考えながら、ぼーっと窓の外を眺めているような子どもでした。
 でも、歌手になるという夢は、当時からはっきりと抱いていました。誰にも話さないのに、私の思いに気付いていたのか、トランペッターの父と、ジャズシンガーの母は、自宅で歌う鼻歌でさえ、「音程が外れているよ」などとよく指摘してくれました。

――本格的に歌手をめざし始めたのはいつ頃から?

 中学校に入学してすぐ、両親に「歌手になりたい!」と打ち明けました。しかし、「高校を卒業してからにしなさい」とぴしゃり。まずは基礎から学ぶために声楽を習い始めました。「今すぐにでもなりたい」という気持ちを押さえ、アドバイスを受け入れた私に、「良子の宝は素直さだよ」と父が言ってくれたのを覚えています。歌手になれるのなら、できることは何でもやろうとの思いでした。
 現在でも当時と同じ先生に教えていただいています。20代前半だった先生も今や80代ですが、とてもお元気で、新しい知識や技能を習得したいと、ご自身も若い方に師事してらっしゃいます。常に前向きに学び続ける姿をそばで見て、私も新しいことに挑戦したいという気持ちになります。

――歌手として活動しながら、二児の子育てをされました。

 一緒に暮らしていた両親のサポートのおかげです。ツアーが続くとなかなか自宅に帰れません。留守中に、「なぜママは、よその家みたいに家にいないの?」とよく聞かれたそうです。
 その代わりに、運動会や文化祭、卒業式といった学校行事やクリスマスなどの年中行事には、必ず家族との時間を作りました。ツアー先から夜行列車で東京に戻り、翌日にとんぼ返り、ということも頻繁にありました。若く、健康だったからできたことでしょうね。日頃一緒にいられない分を取り返そうという気持ちが強かったのだと思います。

――長男の森山直太朗さんは、同じ音楽の世界に進まれました。

 幼少期は「音楽から遠ざかりたい」と思った時期もあったようで、大学生までは「Jリーガーになる」と、サッカーに明け暮れていました。その夢が叶わなくてもサッカーやスポーツ関連の仕事に就くのだと思っていましたが、周囲が就職活動を始めた頃、「僕、就職しなくていいかな」と突然言い出したのです。うちがサ ラリーマン家庭ではないこともあり、「いいわよ」と気軽に答えてしまって(笑)。いつの間にかストリートミュージシャンとして活動を始めていました。
 今では、プロ同士として、対等に批評やアドバイスをし合えるようになりました。最近も、ライブを聞いて、「最近疲れているんじゃない? 声に張りがないよ」と指摘されました。お返しに、ファルセットの出し方をアドバイスすると、納得しつつも「でも、俺には俺のやり方がある」と返してきて。「プロになったのだな」と改めて感じます。

――子育て中の保護者や教職員にメッセージをお願いします。

 子どもたちが小さい頃、「なんでそんなことするの!」と頭ごなしに怒鳴りつけてしまったことがありました。その時、「良子、子どもの目線に立ってものを言いなさい。頭ごなしに叱るだけでは伝わらないよ」と父に諭され、「ハッ」としました。子どもとしっかり向き合いたくても、十分に時間を取れないというジレンマから、焦っていたのだと思います。それからは、一緒の時間は、一人の人間として対等に接するよう心がけました。翌日にコンサートが控えていても、朝の4時、5時まで話をしたこともあります。
 子どもにはそれぞれの個性があります。一律におとな目線で何かを押し付けても上手くはいきません。子どもが日々、何を考え、どう思っているかを共有するための「対話」がとても大切だと思います。

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