鈴木宣之(すずきのぶゆき) 1942年生まれ。
(有)オフィス・イチローの代表として、イチロー選手の野球生活をバックアップしている
――イチロー選手は、どんな子どもだったのですか?
3歳の時に、はじめておもちゃのバットとボールを持たせたら、その日から寝る時も離さなくなったほど、野球好きな子どもでした。
小学3年生で地元のスポーツ少年団に入りましたが、当時は日曜日しか練習がありませんでした。すると一朗が、「平日はお父さんと野球する」と言い出して。毎日、学校から帰って来てから暗くなるまでキャッチボールをしたものです。
子どもが夢を見つける最初のきっかけは、親が与えるものだと思っています。もし一朗がサッカーをやりたいと言っていたら、私も一緒にボールを蹴っていたでしょう。
――いつからプロ野球選手を目指していたのですか。
本格的に野球を始めたのは、小学3年生の頃です。6年生では、「夢」という課題の作文の中で、はっきりと「将来は、一流のプロ野球選手になりたい」と書いています。担任の先生から、「大きな夢があるって、とても張り合いがあっていいですね。誰にも負けないぐらい練習をしてきたという誇りがある限り、夢は叶うでしょう」という言葉をもらって、大喜びでした。
――そんなイチロー選手でも、野球をやめたいと思ったことがあるとか。
高校に入学したての5月のことでした。練習試合に投手として出場し、散々打たれた後に、「野球をやめたい」ともらしました。私は理由を一切聞かずに、「後悔先に立たず、ということがある。自分でしっかりと考えなさい」とだけ言いました。見守ることに徹したのです。
子どもが落ち込んだ時は、見守ってあげる大人が必要だと思います。そうすれば、子どもはやがてまた、自分で歩き始めるはずですから。
――野球を通じて、伝えたかったことは何でしょうか。
一朗には、「人はひとりで生きているわけではないんだ」と、いつも言い聞かせていました。野球がうまくても、周囲に感謝できない人間ではしょうがないですから。
小、中、高校で出会った野球部の監督や仲間たちをはじめ、ご近所のみなさんも、常に私たち親子を見守り、一朗の夢を応援してくれました。
私たちが通ったバッティングセンターの社長が、一朗のために特別速いボールが出るマシンを用意してくれたこともありました。そういう方々のおかげで、今のイチローがあるのだと、一朗自身も分かっていると思います。
――子どもの教育に関して、一番大切なことは何でしょう。
小学2年生の時のイチローと宣之さん
20歳までは、親の責任でしっかりと教育しなければならないと思いますね。その中でも少年時代、いわば義務教育の間が特に重要で、この期間に親や学校の先生をはじめとした周りの大人がちゃんと見てあげることが大切です。そうすれば、子どもは間違った道には進まないし、自分の夢や目標に向かって努力できる子どもになります。
――今、日本の教育が問われています。
教育は一朝一夕でできるものではありません。地道に、ねばり強くコツコツと種をまいてやっと、花を咲かせるものです。手間、愛情、お金がかかるものですし、そうあって当然のものだと思います。教育をおろそかにした結果は、先が見えていますから。
教育はよくも悪くも受け継がれていくもの。だからこそ、今、日本の将来のために国に真剣に教育に取り組んでもらいたいし、私たち国民の一人ひとりも、もっと関心を持たなければならないと思います。
そうして、子どもたちがのびのびと夢を描き、はぐくめる社会をみんなで支えていきたいですね。